ペリー来航の背景(1851年)
1851年5月29日(嘉永4年4月30日)アメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモア(写真)は、日本の開国と通商関係を結ぶことを決断した。 同大統領は東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使としてその任務を与え、1851年6月8日に蒸気フリゲート「サスケハナ」は東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。 しかし、オーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、1852年2月、代将マシュー・カルブレース・ペリーにその任が与えられた。
当時の米国は、西部フロンティアの市場開拓が急務で欧州各国のアジアやアフリカ植民地化を横目で眺めているだけであった。しかし、1846年から続いていたメキシコとの現カリフォルニア州の領有をめぐる戦争で勝利し、カリフォルニアでゴールドラッシュが起こり、米国のフロンティアが解消しつつあり、更なる市場拡大を目指す必要があった。また、これまで大西洋を経由していたアジアへの航路は、太平洋を利用して時間短縮を図ることが可能になった。 さらに、米国海軍は、アジア近海の捕鯨船が増えることで起きる難破船自国乗組員の保護と、捕鯨船への食糧供給基地としての港の確保に迫られていた。
1852年11月13日(嘉永5年10月3日)、ペリーは、海軍長官ケネディから次の訓令を受けた。
任務遂行に当たって、対日使命遂行のため広範な自由裁量権の行使を認め、日本沿岸及び隣接大陸や諸島の探検も行い、行く先々の諸国や諸地方の社会・政治・商業状況、特に商業の新しい対象について、できうる限りの情報を収集すること、などである。
実は、ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。そこで彼は、以下のように述べている。
●任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
●中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」。
●オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
一方、アメリカ政府はペリーの日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使を通じ、通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。
しかしこの書簡(1852年7月2日付け)は、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが日本に向けジャワを出発した後にオランダ領インド総督バン・トゥイストの手元に届いたので、日本には届いていない。ただし翌年、すなわちペリーが来航した1853年(嘉永6年)提出の別段風説書では、ペリー派遣の目的は通商関係を結ぶことが目的の平和的なものであると述べている
ペリー、米国東海岸ノーフォーク港出港
日本開国任務が与えられると、計画はさらに大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」、「サラトガ」、「プリマス」に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻の内、使用できるのは「ミシシッピ」のみであった。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート「ポーハタン」が加わることとなった。

1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー司令長官兼遣日大使を乗せた蒸気フリゲート「ミシシッピ号」は、単艦でノーフォークを出港し、一路アジアへと向かった。 ペリーはタカ派の大統領フィルモア(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていた。 ミシシッピは大西洋を渡って、南アフリカのケープタウン(1月24日 - 2月3日、セイロン(3月10日 - 15日)、マラッカ海峡からシンガポール(3月25日 - 29日)、マカオ・香港(4月7日 - 28日)を経て、上海に5月4日に到着した。
この間、各港で石炭補給を行った。香港でプリマス(帆走スループ)およびサプライ(帆走補給艦)と合流、上海で蒸気フリゲート「サスケハナ」と合流した。このとき、すでに大統領は民主党のピアースに代わっており、彼の下でドッピン海軍長官は侵略目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。
なお、途中マカオにてサミュエル・ウィリアムズを漢文通訳として、上海でアントン・ポートマンをオランダ語通訳として雇用し、日本への航海途中にフィルモア大統領親書の漢文版およびオランダ語版を作成している。
ペリーは琉球経由での来航 実はペリーは浦賀来航の約1か月半前の5月26日に薩摩藩影響下の琉球王国の那覇沖に停泊し、首里城への訪問を打診している。琉球王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。 琉球王国は、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとしており、ペリーは武装解除した士官数名とともに入城した。 ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。 さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振る舞っていた。
しかし、琉球王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものにすぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を意味していたものであった。 しかし、友好的に振る舞ったと理解され、武力制圧を免れたものの、琉球王国はこのあともペリーの日本への中継点として活用された。これらの記録は、琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。
この後、ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて小笠原諸島を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座にイギリスから抗議を受け、ロシア船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。 のちに日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、水野忠徳を派遣して八丈島住民などを積極的に移住させることで、イギリスやロシア、アメリカなどの当時の列強諸国に領有権を認めさせることになる。
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