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維新前夜の太平洋
-鎖国から日本開国に至る世界事情-


米国、植民地から太平洋国家へ
欧州列強間の戦争とアメリカの自治

アメリカ合衆国の領土の拡大

 ペリーは、米国東海岸ノーフォーク港から、大西洋を横断し、アフリカ南岸からアジア大陸沿いに日本へ来航している。この航路は1498年ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマが発見した南アフリカ、喜望峰を経由してインド方面へ向かう航路であり、西アジアのイスラム領内を利用しない南アジアとの貿易航路であり、太平洋航路が発見される前は主要な航路であった。

 当時のアメリカは、イギリスからの独立直後であり、連合国家としての国体の整備と、西部への領土拡大が求められていた時期である。このような時期に極東アジアの島国「日本」へどのような目的があって来航したのか、米国の歴史を振り返りながら検証してみたい。

 アメリカ合衆国の成立

植民地の時代
 コロンブスによる米大陸発見以降、欧州各国から「新世界」への流入が始まった。

 ヴァージニアやカロライナ地域にはイギリス人(ニューイングランド)が、ルイジアナにはフランス人が(フレンチルイジアナ)植民地を築くなど主にイギリス人とフランス人2つの民族によって行われた。
 しかし、それだけではなくニューヨークやニュージャージーにはオランダ人(ニューネーデルラント)が、デラウェアにはスウェーデン人(ニュースウェーデン)が、フロリダにはスペイン人(ヌエバ・エスパーニャ)が、それぞれ思い思いに移住した。
 英国は、1607年にジェームズタウンを建設し、さらに1620年にメイフラワー号に乗ったピルグリム・ファーザーズがプリマスを建設して、以後農業移民が続々と大西洋を渡って北アメリカ大陸東岸へと押し寄せ、18世紀末にはアメリカ東部13植民地が成立していた。これらの植民地はいずれも大西洋岸から内陸へと進出して建設されたもので、主要都市はいずれも大西洋岸にあり、本国並びに西インド諸島との大西洋交易を基盤として発展していった。

  このように16世紀には、欧州各国の多様な国籍の植民地が米国大西洋岸沿いにモザイクのように広がっていた。
 それぞれ本国からの庇護を受けていたことから、欧州の政治社会情勢は直ちに植民地間の紛争となった。特に17世紀から18世紀にかけて、英仏がヨーロッパにおいて戦争をするたびに、英国植民団のニューイングランド植民地と、フランス植民団のカナダとが対立し植民地でも戦争が起こった。

北米植民地戦争
 これらの北米植民地間戦争は1700年のスペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争・フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続き、この戦争中に英国は次々とフランス、スペインの植民地を獲得し北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げた。
 北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大した。この段階で13州の植民地を建設し、州によっては白人の人口がインディアンを上回る地域が生まれた。

  18世紀にはいると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになった。元々、新教徒が多数派を占める植民地とイングランド国教会の本国は軋轢があったが、この頃には精神的に本国と分離しており、経済的にも自立できる力を持っていた。(右図 1713年頃の植民地、クリックで拡大)
  その英国はかねてから「羊毛品法」や「鉄法」によって植民地での工業発展を妨げ、英国以外との独自貿易を禁じてきたが、ここでさらに重商主義(外貨獲得)政策を敷くことでさらに植民地を圧迫した。
 また、フランスとの長い戦争中で必要となった自国軍の駐屯費や戦費を拠出するため植民地住民に対して重税を課し、「印紙法」によって貿易独占を企てた。
 住民が反課税と印紙法廃止を主張して1765年に激しい反対運動を展開したため英国は翌年これらを撤廃したが、今度は「茶法」によって茶の貿易を独占しようとした。対して住民は1773年にボストン港を襲撃、ボストン茶会事件となった。

  茶会事件に衝撃を受けた英国はボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示した。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィアで史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国に対して反抗、1775年4月、英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、アメリカ独立戦争となった。
 住民代表者は第2次大陸会議を開催、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を結成、1776年7月4日の大陸会議において、トーマス・ジェファーソンが起草し、プロテスタント的思想を体現して近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言を発表した。

  一方、英国は1660年代から囚人の流刑地としてアメリカを利用していたが独立戦争が始まったことにより巨大な流刑地を喪失し刑執行が困難になり、これが新たな流刑植民地としてのオーストラリアの歴史へとも繋がっていく。

独立と国家建設

 またロシア帝国皇帝エカテリーナ2世は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立、次第に劣勢は明らかとなり、1781年にヨークタウンの戦いで敗れると、独立容認を叫ぶ声が英自国内でも高まり、1783年にアメリカに対してパリ条約を結んだ。これによって大陸13州は完全に独立し、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得した。(右は独立時の13星旗)

  1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催された。ここにおいて主権在民の共和制、三権(立法・司法・行政)分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、現代に至るアメリカ合衆国(首都ニューヨーク)が誕生した。 1790年、首都がニューヨークからフィラデルフィアに移された。それでも南部住民の間には首都が北に偏りすぎているという批判があった。そのため、この年に当時の合衆国の中央部にあたるメリーランド州とバージニア州の州境にあるポトマック川流域に新首都を建設する事を決めた。1801年に新首都が完成して政府機関はこの地に移された。新首都はこの直前に死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。
 1803年、ナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収したことにより、広大な西部の土地を得、西部に住む農民たちが国境ではなくなったミシシッピ川を物流路として自由に使えるようになった。 ルイジアナ買収の数週間後、ナポレオン・ボナパルト率いるフランスとイギリスは戦争状態に入った。合衆国は、ヨーロッパへの農産物の輸出によって得る外貨にたよる状態で、当初中立の態度を取たが、1812年南部と西部出身の議員の圧力でイギリスへの宣戦布告がなされ、米英戦争となった。 
 南部と西部の入植白人達は、インディアンの土地を得ることや農産物輸出の拡大を期待して、戦争を熱心に支援した。それに対して、北部の連邦主義者たちは戦争には反対であった。しかし、次第にアメリカにとって苦しい戦いとなり、1815年、ベルギーで締結されたガン条約により停戦となり、米英の領土は戦前に戻された。

 この米英戦争中に欧州との関係が途絶え、経済的・文化的に孤立することとなったため、アメリカ人としての精神的自立を促したといわれる。

 これによってナショナリズムが高まり、保護関税を図って自国内の工業を発展させた。また、ラテンアメリカ諸国で独立運動が盛んに行われるようになると、モンロー大統領は1823年に「アメリカ大陸はアメリカ合衆国の縄張りである」と欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発表、これは後にモンロー主義となり、アメリカ大陸の孤立化を図った。これはその後100年近く続くアメリカの孤立主義という外交方針となった。 
 この宣言のもと、米国は1890年の「フロンティア消滅宣言」の頃まで「アメリカ合衆国内の先住民の掃討」に専念した。先住民の掃討が完了した1890年頃以降は太平洋・ラテンアメリカへの政治的・軍事的介入へ展開していく。

領土の拡大と産業革命
  米英戦争によってヨーロッパ政治への介入に懲りたアメリカは、自国の領土拡大へ方針を転換した。1818年にイギリスと旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。これによって1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下という開拓前線、いわゆるフロンティアが誕生した。

 米英戦争直後からアメリカ国民は大挙してルイジアナ植民地へ移住した。その中心はオハイオ川流域であったが、1840年ごろから太平洋沿岸の新天地オレゴンを目指すようになった。このオレゴンを目指す道はやがてオレゴン街道と呼ばれ、西部開拓が盛んになった。移民たちはインディアンなどに襲われないよう、幌馬車で隊列(コンボイ)を組んで移動した。(右図、クリックで拡大)

  このころ、1830年代(ジャクソン第7代大統領の時代、1829-1837、Andrew Jackson)は、アメリカも産業革命を迎え、鉄道や航路が発達し、国内市場が拡大した。また、工業などに従事する人口が少なかったことも、産業革命を全面的に受け入れる土壌となったので、1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んだ。労働者が大量に暮らす大都市圏が登場、企業経営を行う経営者や企業に出資する資本家が台頭し、資本主義社会となった。

  外政では、当時多くが西欧の植民地であった東南アジアに対抗して、まだ西欧諸国の手が伸びていなかった東アジアに対して積極的に強圧外交を行い、1800年代に大国清やその属国朝鮮に接近、1853年に日本に上陸し、翌年に徳川幕府を開国させることに成功した。だが、その後発生した南北戦争によって東アジア外交は一時滞ることとなる。

  1844年に領土膨張主義を主張するジェームズ・ポーク(James Knox Polk)が第11代大統領(1845-1849)に就任すると、翌1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。

 また同年に英国と協定を結び、メキシコとの間で米墨戦争を行って勝利した。これによって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1853年にさらにメキシコ北部を買収した。編入された領土ではメキシコ時代に廃止された奴隷制が復活した。

  1848年に旧メキシコ領カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、一攫千金を狙った多くの白人が移住した。いわゆるゴールド・ラッシュである。ヤヒ族などは、金鉱採掘者によって絶滅させられてしまった。1841年143日間の漂流の末、米国捕鯨船に救助された土佐の漁師、萬次郎も金鉱採掘で帰国費用を工面し1849年にハワイ・上海経由する商船から、自前で購入した小型船に乗り換え琉球に上陸している。

ミラード・フィルモア第13代大統領(1850-1853、Millard Fillmore)
マシュー・ペリー提督を日本に派遣した、フィルモア大統領の重要な功績は、大陸横断鉄道建設の推進のほか、外交政策において日本の開国に成功させ、そしてフランスの干渉があったハワイ王国(当時イギリス保護領)を自国の影響下に置くことにも成功したこととされている。 一方、フィルモアはこの頃から芽生えてきた南北分裂の動きを何とか食い止めようと、南部連合の意向を尊重した政策も採っている。これらは奴隷制度廃止には否定であり、またインディアンに対しては徹底排除の方針であった。しかし、これらの努力もむなしく米国は内戦の時代へと移っていく。

米国の産業革命
 アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、北部は産業革命を迎えて工業化が進んだが、南部は綿花生産を主産業としていた。北部工業地帯は欧州との工業製品輸出競争の兼ね合いから、自国産業保護を訴えて関税をかけるなどの保護貿易を求めた。一方、南部農業地帯は自由に綿花を輸出したいため、自由貿易と関税撤廃を求めた。こうして南北の対立が明らかになってきた。 更に重工業化の進んだ北部では労働者が不足する事態となったので、19世紀初頭に続々と黒人奴隷を解放して、労働者として使用した。これら解放された奴隷の一部はアフリカ大陸への帰還を希望し、アフリカ西海岸にリベリアが成立した。一方、南部では19世紀半ばを過ぎても黒人を奴隷として使用し、広大なプランテーション農業を行っていたが、北部の工場を経営する資本家はこの豊富な黒人労働力を必要としていた。しかし、英国からの綿花需要が拡大し、南部ではますます黒人奴隷に頼る産業構造となり、南北の対立は厳しくなっていった。

 一方産業革命は、製造工場に必要な「鯨油」の増産を要求し、米国東海岸を基地とした商業捕鯨により大西洋のクジラ資源は涸欠するに至る。このためアメリカの商業捕鯨船は1800年ごろから太平洋をその漁場とするようになった。しかしその当時の基地は東海岸のままであった。これが、米墨戦争の勝利により太平洋岸が米国の領地になったこと、そして大陸横断鉄道の開通と港湾の整備など流通網の構築により、それまで南アメリカ南端を迂回して米国東岸部の港湾基地へ戻る必要がなくなってきた。

 米国では19世紀中ほどに原油を精製して石油を生成する技術が開発されたが、当時は生産量や価格で鯨油には及ばず、第2次世界大戦以降鯨の資源量の低下と石油の廉価で大量供給が可能となるまで鯨油が使用されていた。


 太平洋の時代へ

 15世紀までが地中海世界が中心とするならば、大航海時代を経て、18世紀までは大西洋の時代であったといえる。18世紀中盤までにはアメリカ大陸におけるアメリカ合衆国の領土が太平洋まで拡大され、太平洋の時代を迎える。これは、産業資源としての「鯨油」産業の隆盛、並びに東アジアへ直行する航路の開発による。技術革新の時代は商品の大量生産のための資源のほかに大量消費する新市場を必要としていた。

日本近海への欧米船の出没

 また産業革命により欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになる。これにより、機械の潤滑油や、灯火の燃料が必要となり、その原料として主に使われていたマッコウクジラの鯨油の需要が伸びた。

 欧米においては当時の捕鯨は主に鯨の脂身と骨を目的としていた。 鯨の脂身から得られる油は照明と潤滑の両方の目的で使用され、鯨の骨や髭はさまざまな有用な製品を作るために使用されていた。そして、大西洋をその主な漁場としていた。特に、マッコウクジラからは良質の鯨油が取れることが分かり、マッコウクジラがその対象となった。
 ヨーロッパでは産業革命よる家内工業から工場での大型機械による大量生産への移行、そして工場稼働時間が深夜に及ぶなどの影響により機械の潤滑油や照明用の鯨油需要が拡大し大西洋からマッコウクジラは姿を消したといわれる。
 一方アメリカにおいては18世紀にはマッコウクジラの鯨油を目的に商業捕鯨が始まり、大型の帆船捕鯨船を本船としたアメリカ式捕鯨へ移行するとともに、18世紀末には操業海域は太平洋へと移った。(右図参照・クリックで拡大)



 このように、欧米の国々は日本沿岸を含む世界中の海で捕鯨を盛んに行なっていた。
日本近海では伊豆諸島・小笠原諸島などジャパンクラウドと呼ばれる漁場、カムチャツカ半島東方のカムチャツカクラウドと呼ばれる漁場が捕鯨の好漁場として知られていた。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていた。また、難破船の問題もあり、各国は日本に対し港を開放するように迫っていた。

 ペリーが浦賀へ来航するころのアメリカ合衆国は、米国内のフロンティア解消(国内市場拡大)を優先している時期に当たり、欧州列強のようにインドや東南アジアに拠点を持つ必要性は乏しかった。
しかし、米国東海岸を基地とする捕鯨船は大西洋でのマッコウクジラ資源の減少により太平洋へその漁場を求めており、水や食料、燃料などの補給拠点を求めていた。

 さらに、加えて難破船の問題があった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務の一つであり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。

 1833年当時の人口は、アメリカが約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった。

アジアへ最短航路、大圏航路の開発
 このようなことから当初のアメリカの目論見は、太平洋地域における漁業補給基地を確保することであったが、米国内フロンティアが解消されるにつれて、市場としての中国に目を向けることになる。

  アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 - 1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得した。
これによりアメリカは太平洋国家となり、巨大市場である清との貿易開拓が国家目標となった。

  アメリカ西海岸から中国に至る最短航路(大圏コース)は、米西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海付近に至るものである。

このため、津軽海峡に面した松前(実際に開港したのは箱館)に補給拠点をおくことが望まれた。さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は組織規模維持のため東インド艦隊の役割を拡大する必要が生じた。


米国船の来航事件

  このような米国側の事情を反映した事件が1790年以降頻発する。記録に残る主要な事件の一部は以下の通り。

  • ●1791年(寛政3年) 米国人が2隻の船で紀伊大島に上陸
      冒険商人ジョン・ケンドリックが2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人となった。
  • ●1797年(寛政9年) 米商船がオランダ国旗を掲げて出島で貿易
      オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。

  • ●1830年(天保元年) 小笠原諸島の米国人上陸
      小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリーが上陸。

  • ●1835年(天保6年) 米国、東インド艦隊を編成
      大統領アンドリュー・ジャクソンは、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命使節とし、清、日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジアに送り届けるため、東インド艦隊が編成された。

  • ●1837年(天保8年) 米商船モリソン号砲撃事件
      アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で音吉など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に渡航。1808年の長崎でのイギリス軍艦の起こしたフェートン号事件以降の異国船打払令に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した。

  • ●1844年(天保15年) オランダ国王の親書届く
     7月29日、オランダ政府はオランダ国王の親書を軍艦で江戸幕府に届ける旨を予め商船船長のヒイトル・アオヘルト・ヒツキから江戸幕府に通知させたうえ、8月15日には軍艦長ハーエス・コープスがこれを届けた。親書は江戸幕府が鎖国を解くよう、またオランダ船やその船員、日本人に対する待遇を改善するよう求めたもので、美術品や地図、植物図鑑、天文学書などが付されていた。

  • ●1845年(弘化2年) 米捕鯨船が浦賀へ入港
      捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、船長マーケイター・クーパーは浦賀への入港を許可され浦賀奉行と対面した。

  • ●1846年(弘化3年) 米国軍艦2隻、浦賀に渡航
    アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号、ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀に渡航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。

  • ●1846年(弘化3年) 米捕鯨船の乗員、択捉島に漂着
     アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員、択捉島に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。

  • ●1848年(嘉永元年) 米捕鯨船の乗員、西蝦夷に漂着
     アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西蝦夷地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。

  • ●1848年(嘉永元年) 米国民間人密入国
     米国民間人であるラナルド・マクドナルド、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国

  • ●1849年(嘉永2年) アメリカ軍艦長崎来航
     東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に来航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。

  • ●1851年(嘉永2年) ジョン万次郎、琉球上陸
     1941年(天保12年)1月足摺岬沖で萬次郎(ジョン萬次郎)他土佐の漁師計5人が遭難した。143日間の漂流の後1841年5月、米捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に救助され、4人はハワイで下船、萬次郎は米東海岸マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した。当時この地は同国における捕鯨の一大拠点であった。
     ここで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。その後再び、捕鯨船に乗り込み大西洋・太平洋・インド洋を航海、ホノルルでは別れた漂流民と再会した。1849年、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ向かい、数か月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。
    そこで得た資金を持ってホノルルに渡り土佐の漁師仲間と再会。1850年12月17日、上海行きの商船サラ・ボイド号に漁師仲間の伝蔵と五右衛門と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。(右写真はジョン萬次郎の銅像、高知県足摺岬遊歩道入り口設置)

     1851年(嘉永4年)、薩摩藩支配下の琉球にアドベンチャー号で上陸、翁長で牧志朝忠から英語で取り調べを受け、地元住民と交流した後に薩摩本土に送られた。
     鎖国の日本へ帰国した萬次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。

     薩摩藩では一行を厚遇し、西洋文物に興味があった藩主・島津斉彬は自ら萬次郎に海外の情勢や文化などについて質問した。
     斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示した後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船(小型木造帆船)の越通船(おっとせん、後日、試作の蒸気機関を搭載した外輪船へ改造)「雲行丸」を建造した。(右図、蒸気機関を搭載した外輪船「雲行丸」の略図)
     斉彬は萬次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。
      その後、萬次郎らは長崎に送られ、1852年(嘉永5年)漂流から11年目にして故郷土佐へ帰った。