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維新前夜の太平洋
-鎖国から日本開国に至る世界事情-


南蛮船入港禁止令
1639年(寛永16年)8月4日

坤輿万国全図
イタリアの宣教師マテオ・リッチが作成した漢訳版世界地図。
1602年に北京で刊行され、鎖国時の日本にも輸入された。
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 1639年、江戸幕府による南蛮船入港禁止令

  江戸幕府は1612年のキリスト教布教を禁ずる禁教令を皮切りに、4次にわたってイギリス・ポルトガル船(南蛮船)入港制限令を施行し、最終的に1639年(寛永16年)に三代将軍・徳川家光はポルトガル船の入港を完全に禁じた(南蛮船入港禁止令)。

 それまでもキリスト教布教禁止や、アジア各国との貿易について管理を強化していたので、この禁止令は「キリスト教国(スペインとポルトガル)人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、オランダ・中国船の寄港地を長崎出島に限定する、海外貿易管理・統制・制限令」であった。

この政策は、現在では「鎖国令」とされるが、この言葉は造語で、幕府内で初めて使われたのは1853年、一般的に使われるのは明治時代以降である。


 禁止令以降の対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間の通商関係に限定されていた。
「鎖国」中の取引というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。

 このような海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていたという。
そしてその目的とするところは、当時の政治体制維持するために、政権で対応できない事案を最小化するための制度で、政権支配体制の維持が究極の目的であった。

 また、この「鎖国政策」は井伊直弼が「閉洋之御法」で「籠城」と同じようなものである、とみなしていたように、現在でいうと「自主規制」であり当該国の地政学的価値が世界的に評価されない時代には通用する政策であった。自主規制中の日本は、海外からの影響を直接受けることは少なかったが、18世紀中盤以降の技術革新をもたらした産業革命による世界情勢の変化とその影響が国々の相互関係を大きく変えていく「時代の変革」の波を防ぐことはできなかった。江戸時代中期になると、欧米諸国の船が日本近海に現れるようになる。

 「鎖国」政策は、徳川幕府の法令の中では徹底された部類ではあったが、特例として認められていた松前藩、対馬藩や薩摩藩では、徳川幕府の許容以上の額を密貿易(抜け荷)として行い、 それ以外の領内を大洋に接する諸藩も密貿易をたびたび行っていた。
これに対して、新井白石や徳川吉宗ら歴代の幕府首脳はたびたび禁令を発して取締りを強めてきたが、財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。中には、石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易(朝鮮、清)に関わった上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もあったという。

 一方、幕府は「鎖国」中も唐船風説書や和蘭風説書 (おらんだふうせつがき)を通じて海外の情報を受信していた。
幕府はカトリック国であるポルトガル・スペインの動向を知るため、オランダ船が入港するたびに情報を提供することを要求し1641年(寛永18年)から開始された。これがオランダ風説書である。風説書はオランダ商館長(カピタン)が作り、それを通詞が日本語に直した。後には、ポルトガル・スペインだけではなく、他のヨーロッパ諸国、インド、清などの情報も記載されていた。以降、これは幕府が鎖国中に海外事情を知る上で非常に重要な役割を果たした。


 別段風説書

 オランダ風説書(ふうせつがき)は、長崎のオランダ商館で作成されたが、1840年のアヘン戦争発生をきっかけに、オランダのバタヴィヤ政庁はイギリス系新聞を基にした別段風説書を毎年提出するようになった。
別段風説書では1846年のアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルや1852年のマシュー・ペリーの来航予告のほか、1850年の英仏間海底通信ケーブル敷設といった情報も伝えていた。当然これらの情報は、オランダ政府の意図を汲んで作成されているものの、新聞掲載記事や風評なども併せて伝えていた。

風説書/NewsLetter 右画像は、『安政四年丁巳別段風説書並添書 (Ansei 4-nen hinotomi betsudan fusetsugaki narabi-ni soegaki)』 安政5年 (1858) の写本である。原本は当時の出島オランダ商館長で、駐日オランダ理事官を兼務していたヤン・ドンケル・クルティウスが安政4年 (1857) 12月に長崎鎮台へ差し出したもので、安政5年1月に訳された。

これらの風説書は幕府の最高意思決定機関へも届けられ、自国防衛あるいは海防を担う親藩は防衛対策を強化した。(画像クリックで拡大)

 江戸時代中後期の外国船来航の主な記録

 歴史に記録される範囲では、「鎖国」は第2代将軍秀忠に始まり、第3代将軍家光の時代に完成したといわれる。江戸幕府は、1673年リターン号(イギリス)によるイギリスとの交易申し出を拒否し、これ以降オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。
しかし18世紀後半から19世紀中頃にかけてロシア、イギリス、フランスそして米国などの艦船が日本に来航している。記録に残る主な来航は以下の通り。

  • ● 1778年(安永7年)ロシアの商人がアッケシに来航
     1778年ロシア、ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンがアッケシに来航。松前藩に、交易を求めるが拒否される。
  • ●1787年フランスの探検隊が日本近海を探検
     1787年(天明7年)、フランス王国のラ・ペルーズ探検隊が日本近海を航海、千島列島、琉球列島を探検した。
  • ●1791年米国の探検家が現る
     1791年(寛政3年)、米国の探検家ジョン・ケンドリックが2隻の船と共に紀伊大島に到着、11日間滞在した。日本を訪れた最初の米国人。
  • ● 1792年ロシアから貿易を求めてアダム・ラクスマンが根室に来航
     1792年(寛政4年)ラクスマンは、伊勢からの漂流民、大黒屋光太夫他3名を伴い貿易を求めるが、幕府は拒否。しかしロシア船の長崎港入港許可を与えた。
     1800年、伊能忠敬が幕府の命により蝦夷地測量を開始する。
  • ●1804年ロシアから、ニコライ・レザノフが出島へ来航し貿易を求める
     1804年(文化1年)ニコライ・レザノフは、ロシア帝国の使者として正式に国交樹立のため来日したが、半年間出島近くに留め置かれ最終的は通商の拒絶を通告され装備も食料も不十分のまま出航。

     このころ、ロシアやイギリスの軍艦が通商を求めて日本近海に現れることが増え、またアメリカの捕鯨船などが寄港地を求めて日本に立ち寄ることもあった。 幕府は対応に苦慮し、1806年(文化3年)に「文化の薪水給与令」を発令し、立ち寄った外国船に対して燃料や食料の補給を認めた。
  • ●1806年ロシア、ニコライ・フヴォストフによる北海道襲撃
     1806年(文化3年)日本との交渉に携わったレザノフの部下が武力により利尻島・択捉島を襲撃する事件「文化露寇」が発生。日本人がロシアに連行され、防衛に乗り出した幕府軍も大きな被害を出す。
  • ●1807年ロシア船打払令
     国防の強化の必要性を感じた江戸幕府は文化の薪水給与令を廃止し、1807年(文化4年)にロシア船打払令を発令した。
  • ●1808年イギリス軍艦「フェートン号」侵入事件
     1808年10月4日(文化5年8月15日)、ナポレオン戦争によりフランス領であったオランダと交戦国の関係にあったイギリス軍艦「フェートン号」がオランダ船拿捕を目的に長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質に取り食料、燃料を強要するフェートン号事件が起こる。佐賀藩による長崎港警護体制の不備により、フェートン号は港外へ脱出する。この事件は当時の為政者に深刻な衝撃を与え、幕府の海防政策強化を促し、後の異国船打払令(1825)発布の契機となった。
    また軍艦ではなく漁船の来航も増加した。 これは、日本近海に良質の捕鯨の漁場があり、異国船の出没は次第に増えていった。
  • ●1824年水戸藩の大津浜事件
     1824年(文政7年)英国捕鯨船数隻が水戸藩大津浜」沖に停泊し、英国人乗組員が上陸。船内に壊血病者がいるために新鮮な野菜や水を補給するために上陸したことがわかり、これらを与えて船員を船に帰した。
  • ●1824年薩摩藩の宝島事件
     1824年(文政7年)英国捕鯨船乗組員がトカラ列島にある宝島へ上陸し、島民に牛を譲渡するように要求したが、在番および郡司が拒否したため、20名から30名程度のイギリス人が島に上陸し牛3頭を略奪した。

    更に、同年水戸藩の漁師が数年前から欧米の捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚。

       このように、多様な目的での来航・乗組員上陸であるにもかかわらず、幕府の対応は場当たり的かつ従来の外国船の来航を武力によって防止する姿勢を維持していた。さらに上陸してきた外国人と日本の民衆との接触を阻止することを目的として、当時貿易をしていたオランダ・清(中国)以外の日本沿岸に来航した外国船を見つけ次第砲撃することを命じる異国船打払令を1825年(文政8年)に発令した。

    しかし、これらの発令も自主規制であり、周囲を海に囲まれた日本へ欧米船の来航は続くことになる。
    このように日本が諸外国に対して強硬姿勢をとっていた時期に米国船モリソン号事件は起こる。
  • 1837年アメリカ、モリソン号事件
    1837年(天保8年6月28日)アメリカのモリソン号が日本の浦賀に来航した。その目的は漂流救助した日本人船乗り7名の送還と、通商とキリスト教布教を目的としており、武装はしていなかった。
    しかし、来航したモリソン号は英国軍艦と勘違いされ、浦賀奉行所は異国船打払令に従って砲撃した。退去させられたモリソン号は薩摩藩に向かい再び交渉を行うが、交渉は拒否され威嚇射撃を受け、これにより日本との交渉を断念したモリソン号は帰港した。
 モリソン号事件後の動き

 幕府はモリソン号を退去させるのには成功したが、この砲撃で日本の防備の脆弱性があらわになった。
実は、浦賀で撃った大砲はほとんどモリソン号には届かず、また日本の大砲の弾は、炸裂しない鉄の塊であったので船に被害は少なかったが、モリソン号には武装は無かったので日本を離れたが、突如現れた外国船に奉行所はうろたえていたのが実情であった。

 1838年、事件の一年後オランダ商館を通して、このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたことが1年後に分かり、異国船打払令に対する批判が強まった。

 このような状況下、幕府では、今後の対応について審議が行われ、漂流民はオランダ船による送還を認めるという」ということが決議されたが、しかしこの議論の中で「漂流した日本人の送還は一切認めず、外国船は徹底的に打ち払うべき」という強硬な意見があったことが、国民の反発を買うこととなった。
 これを受けて渡辺崋山や高野長英など蘭学者、儒学者が異国船打払令や幕府の対外政策を批判したため幕府の弾圧を受けた(蛮社の獄、1839年)。

 一方その後日本に現れたペリーは、日本は無差別に攻撃を仕掛けてくるということを教訓にしては完全武装で日本へ向かったという。

 このようにモリソン号事件により幕府は防備の弱さを露呈し、国内外から批判を受けることとなったが、さらに幕府を動揺させることが起こる。

 それがイギリスと清との間で1840年~1842年に起こったアヘン戦争にイギリスが勝利したことである。日本はそれまで清を高い軍事力を持つ大国と考えていたため、その敗北に衝撃を受けたのである。

 幕府は、オランダに風説書(ふうせつがき)の提出を義務付け国際情報を得ていたが、アへン戦争が起きると、これとは別により詳細な情報(別段風説書)を入手した。
 1840年(天保11)から1843年(天保14)まで、出島のオランダ商館長から提出された4通の別段風説書の日本語訳をまとめた『阿片招禍録』には「唐国にてエケレス人阿片商法停止ニ付記録致候事」等の表題が付けられ、戦争の経済的背景と戦闘の具体的様相、締結された条約の内容まで、アヘン戦争の一部始終が詳しく報告されている。(国立公文書館所蔵、画像クリックで拡大)

 それまで、異国船打払令により日本沿岸に来航した外国船は見つけ次第砲撃するという強硬姿勢をとっていた日本であったが、それが原因となり戦争が起こる危険性や報復を受ける可能性があること、そしてモリソン号事件のように調査を行わずに無差別に砲撃を行うことは、国内外からの批判が高まることも考えられることから方針転換を行う。
 幕府は諸外国との戦争を避けることを目的として1842年に、まず来航した外国船を調査し、必要があれば食料・燃料の補給を認める天保の薪水給与令を発令した。


 続く来航船

 こうしてモリソン号事件がきっかけとなり、江戸幕府は対外政策の方針転換を行い、これが後の開国への動きへとつながっていくがその実、海外からの来航は続く。
日本国内では、1833年ころから1839年まで続いた「天保の大飢饉」直後の混乱や、大塩平八郎の乱(1837年)などで市中に混乱が残っていた時代でもある。 ペリー来航までに発生した主な事例は次の通りであった。

  • ●1844年(天保15年)、フランス海軍のフォニエル・デュプラン大佐が率いる遠征隊が琉球王国に来航、通商を求めるが拒否された。しかし、テオドール・フォルカード神父と通訳が那覇に残った。
  • ●1844年8月14日(弘化元年7月2日)、オランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王ウィレム2世の将軍宛の親書を携えていた長崎に入港。この親書はシーボルトの起草によるもので、開国を求めたが幕府はこれを拒否した。
  • ●1845年(弘化2年)、米国捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、マーケイター・クーパー船長は浦賀への入港を許可され、浦賀奉行と対面した。
  • ●1846年7月20日(弘化3年閏5月27日)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将は戦列艦コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、開国交渉のために浦賀に入港した。しかし、条約の締結は浦賀奉行に拒否され、数日の滞在で退去した。浦賀にアメリカの軍艦が出現したことを受けて、幕府では無二念打払令の復活が検討された。
  • ●1848年(弘化5年/嘉永元年)、米国人ラナルド・マクドナルドが、日本人に英語を教えたいと自らの意志で、遭難を装って利尻島に上陸した。その後長崎に送られ、崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話を教えた。帰国後は、日本の情報をアメリカ合衆国本土に伝えた。
  • ●1849年(嘉永2年) 東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。

オランダによるペリー来航の予告

 「鎖国」中も幕府は唐船風説書やオランダ風説書を通じて海外の情報を受信していた。1840年のアヘン戦争発生をきっかけに、オランダのバタヴィヤ政庁はイギリス系新聞を基にした別段風説書を毎年提出するようになった。別段風説書では1846のアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルや1852年のマシュー・ペリーの来航予告のほか、1850年の英仏間海底通信ケーブル敷設といった情報も伝えていた。

 1852年7月21日(嘉永5年6月5日)、ペリーが来航する約1年前、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺のアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。
 さらに、6月25日付けのオランダ領東インド総督バン・トゥイストからの長崎奉行宛の親書(『大尊君長崎御奉行様』)を提出したが、そこにはアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。
外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案が示されていた。また、1844年の親書のあとも開国されなかったため国王は失望しているが、もし戦争になればオランダ人にも影響が及びかねないなどの懸念を表していた。


老中首座、阿部正弘の判断
 老中首座阿部正弘(右写真)は、夏ごろには溜間詰の譜代大名に先述の「別段風説書」を回覧した。海岸防禦御用掛(海防掛)にも意見を聞いたが、通商条約は結ぶべきではないとの回答を得た。
 また、長崎奉行もオランダ人は信用できないとしたため(以前にオランダ風説書でイギリスの香港総督ジョン・バウリングの渡航が予告されたがそれはなく、すべての情報が正しいわけではなかった)、幕府の対応は三浦半島の防備を強化するために川越藩・彦根藩の兵を増やした程度であった。
  加えて、幕府内でもこの情報は奉行レベルまでの上層部に留めおかれ、来航が予想される浦賀の与力等には伝えられていなかった。他方、外様の島津斉彬には年末までに口頭でこの情報が伝えられたようであり、斉彬は翌年(1953年)のアメリカ海軍東インド艦隊の琉球渡航以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。