F JNET Kagoshima Library

維新前夜の太平洋
-鎖国から日本開国に至る世界事情-


中世の欧州と地中海世界
大航海時代から産業革命へ

1700年ころの植民地
  1346年から1353年にかけてヨーロッパでパンデミックを起こしたペストは「黒死病」と言われ、当時の欧州人口の30-60%が死亡したと推定されている。この疫病はその後も追加の感染爆発があり、1500年まで欧州の人口は1300年の段階へと回復することがなかったといわれる。
 この黒死病パンデミックは中央アジアまたは東アジアが端緒とされ、欧州地域で最初となる発現は1347年のクリミア半島であった。このクリミアから、ジェノヴァ共和国の奴隷船に乗って移動したクマネズミに寄生するノミによって運ばれたと推定されるペスト菌は、地中海沿岸を越えて蔓延し、コンスタンティノープル、シチリア島、イタリア半島を経由してアフリカ、西アジア、他の欧州地域へと広がっていった。


 当時はペスト患者を専門的に治療した医師がおり、彼らは黒死病が蔓延した時代に多くのペスト患者を抱えた都市から特別に雇用された者たちであった。


 報酬も都市側から支払われたため、ペスト医師は貧富の隔てなく誰であろうと公平に治療を施した。これらペスト医師は様々な衣装を身に着けていたが、中にはひと目で分かる独特の格好をする者もいた。

 できるだけ肌を露出させないよう全身を覆う、表面に蝋を引いた重布か革製のガウン、つば広帽子、嘴状をした円錐状の筒に強い香りのするハーブや香料、藁などをつめた鳥の嘴のようなマスク(ペストマスク)、木の杖のひと揃いがその典型であった



 このように、疫病がオリエントから来た船より広がることに気づいたヴェネツィア共和国当局は、1377年に、疑わしい船を入港させる前に、近くの小島に30日間強制的に停泊させる法律を施行した。
 さらに1448年には、首都ヴェネツィアに入港する時は10日間延長して40日間とすると改定した、これが英語で検疫「quarantine」の起源で、イタリア語のヴェネツィア方言「クワランテーナ」quarantena(40日間などの意)を語源としている。

 当時の欧州は土地と軍事的な奉仕を媒介とした教皇・皇帝・国王・領主・家臣の間それぞれの契約に基づく緩やかな主従関係により形成される分権的社会制度(封建制度)で成立していた。この契約は二者間の直接契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。

 このため、神聖ローマ帝国は領主や国王間の争いについては直接的に対応できる状況ではなく、奴隷貿易で成長した都市国家間や、農奴・領地、さらに後継者争いなどの紛争は絶えなかった。

 地中海世界からの拡大

 1453年オスマン帝国(オスマントルコ)がビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし地中海東部(右図参照、クリックで拡大)をその領土とし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得したことで事情は変わる。東西の中間に楔を打つ形成となりオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。

 11世紀トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、ローマ教皇にの聖地エルサレムの奪還を訴えたことが発端となり西欧カトリック諸国が派遣した遠征軍は「十字軍」といわれ13世紀末までに9回派遣されたといわれる 。

 1204年、第4回十字軍への参戦で、ヴェネツィアやジェノヴァは黒海沿岸部に海外領土を得て東方貿易(特に奴隷貿易)を行っており東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況を現出していた。同じ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。
しかし、15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、これらの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。

 しかし、ヴェネツィアはこの機会を利用し、オスマン帝国と経済関係を深め、東地中海においてイスラム諸国との貿易をほぼ独占する方針へ転向した。

  一方、ポルトガルやスペインはもともと地中海貿易のはずれにあったので地中海貿易による恩恵はうすかった。また、これらイベリア諸国では政治的にヴェネツィアと対立しており、ジェノヴァ商人が大きな影響力をもち、彼らがヴェネツィアの地中海貿易に対抗して両国に大西洋進出を進言し実際に出資した。ジェノヴァにおいては、1148年に銀行(現、サン・ジョルジョ銀行 Banco di San Giorgio)が設立され共和国の財政を一手に引き受けていた。

 この時代、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた時代(レコンキスタ、1492年終了)で、イベリア半島では長い間イスラムの圧迫を受けてきたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰している時期であり、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立していた。

  更に、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。

  このように、新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。

精神的時代背景
 この時代を考える際に不可欠なのがルネサンスである。ルネサンスは文化運動として14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった。 イタリア・ルネサンスの時期としてはおおむね14世紀中頃のペスト流行以降、宗教改革後のトリエント公会議(1545年-1563年)までが想定される。

 ヨーロッパにおいては313年「ミラノ勅令」によりローマ帝国でキリスト教が公認された。以後キリスト教が国家施策として普及され行動基準=国家支配宗教となる。西ヨーロッパ圏では古代ローマ・ギリシア文化の破壊が行われ、多様性を失うことにより、世界に貢献するような文化的展開をすることはできなかった。このようなことからルネサンス=「文芸復興」と訳されていた。

 ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内の実態は教皇領や小国に分裂し、また1494年以降イタリア国内の混乱を契機として発生したイタリア戦争後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になった。 1600年には宇宙の無限性を唱えたブルーノが異端として火刑に処せられた。イタリアにおいては自由な科学研究も困難であることが示され、ルネサンスの時代は終焉を迎えたといえる。

 このように、政治社会的にはルネサンスの時代は明るい時代ではなく、ペストの流行やマキャベリが『君主論』を唱えたように政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていた。

大西洋の時代へ
 ヨーロッパ人のアメリカ大陸移住によって、大西洋両岸においていわゆるコロンブス交換が起こり、両大陸の文化に重大な影響をもたらした。旧大陸からはコムギや牛、鉄などがもたらされる一方、新大陸からはトウモロコシやジャガイモ、トマトやたばこなどがもたらされ、両地域ともに盛んに利用・生産されるようになっていった。17世紀には南アメリカからアフリカ大陸にキャッサバがもたらされ、キャッサバ革命と呼ばれる農業技術の革新が起こった。

 また、上記の諸航路の発見・開発によって、アジアや新大陸の富が大西洋経由でヨーロッパ大陸へと流れ込むようになり、ヨーロッパ大陸の経済重心は大きく変化した。アジア交易の起点であるリスボンや、新大陸交易の拠点であるセビリアはいずれも大西洋に面した港町であり、それまでのヨーロッパ域内貿易に依存したバルト海・地中海地域から、域外交易を握る大西洋地域、およびそれと直結した北海地域がヨーロッパの新たな経済の中心地域となった。

 ジェノヴァやヴェネツィアの商人が、これら新大陸(新航路)の発見に資金や私財を提供したことで、新大陸や新航路の発見が国家事業となった。このことは、これらがもたらす権益は国家が管理する、その権益の運営の現場は商人たちが行うという相互補完関係を構成し、それを「契約」という概念で相互確認することとなる。つまり、これら商人層の台頭である。それまでは為政者と隷属庶民という二層構造であったが、その間に商人層が現れ、次の時代における「市民層」を形成する礎になる。

  • 主な地理的発見
  • ●1496年 アメリカ東北部到達
     1496年にイタリア生まれの航海者ジョン・カボットが北大西洋を英国ブリストルから西進し、ニューファンドランド島へ到達。世界有数の好漁場となっているニューファンドランド沖で、彼らは大量のタラの魚群を発見した。
    この報が伝わるやすぐにフランスやポルトガルの漁民たちは大挙して大西洋を渡り、タラをとるようになった。

  • ●1497年 カリブ海沿岸探検
     フィレンツェ生まれのアメリゴ・ヴェスプッチは、スペイン王の命により1497年から1498年にかけてを探検。1499年から1500年の第二回航海ではカリブ海から南下してブラジル北岸まで探検。

  • ●1500年 ブラジル北東部到達
     1500年には、インドへの航海中だったポルトガル人、ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジル北東部に到達。

  • ●1513年 パナマ地峡発見
     1513年にはスペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによってアメリカ大陸が最も狭まる地点であるパナマ地峡が発見された。

  • ●1520年 マゼラン海峡発見
     1520年にはスペインの航海者フェルディナンド・マゼランがマゼラン海峡を発見し、大西洋と太平洋をつなぐ航路が利用可能になった。もっともマゼラン海峡は波の荒い難所であり、船を回航する際には利用されたものの当時は商業航路としてはあまり利用されなかった。
  • ●1543年 ポルトガル人種子島漂流、日本への鉄砲伝来
  • ●1571年 スペイン、フィリピンにマニラ市設立
  • ●1579年 英国人、インド上陸
  • ●1596年 オランダ人、ジャワ島上陸

 大西洋三角貿易による市場拡大

 17世紀に入るとオランダの独立やフランスとの戦争に敗れたスペインの勢力は衰え、オランダやイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。
一時は各国が競って大西洋交易を担う西インド会社を設立したもののうまくいかず、やがて大西洋交易は一般商人によるものが主流となった。 また、スペインの勢力縮小に伴って小アンティル諸島には空白地域が点在するようになり、そこにヨーロッパ諸国が競って植民地を建設していった。

  北アメリカ大陸においては、1607年にイギリスがジェームズタウンを建設し、さらに1620年にメイフラワー号に乗ったピルグリム・ファーザーズがプリマスを建設して、以後農業移民が続々と大西洋を渡って北アメリカ大陸東岸へと押し寄せ、18世紀末にはアメリカ東部13植民地が成立していた。これらの植民地はいずれも大西洋岸から内陸へと進出して建設されたもので、主要都市はいずれも大西洋岸にあり、本国並びに西インド諸島との大西洋交易を基盤として発展していった。

 18世紀には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで奴隷と交換し、その奴隷を西インド諸島やアメリカ南部に運んで砂糖や綿花と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ三角貿易が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった。一方で大量の奴隷を流出させたアフリカの経済は衰弱し、のちの植民地化の遠因となった。奴隷として運ばれた黒人たちは小アンティル諸島やアメリカ南部、ブラジル北東部など各地に定着し、やがて独自の文化を形成していった。

 この交易はイギリス経済の根幹の一つとなり、イギリス商業革命の原動力になるとともに、西インド諸島やアメリカ植民地ではイギリス文化の流入が進み、商人以外にも官僚や宣教師などの移動も活発化して、大西洋はイギリス帝国の内海になった。上記の三角貿易のほかに、英国、北米、西インドを結ぶ奴隷を商品としない三角貿易も存在した。1763年のパリ条約によって、イギリスは北アメリカ大陸からフランスをほぼ撤退させ、北大西洋の内海化をより進めた。しかし、やがて七年戦争の戦費負担を求められたアメリカ植民地が反発し、アメリカ独立戦争が勃発。1776年にアメリカ合衆国は独立することとなった。

コロンブス交換
Columbian Exchange

 1492年から続いた、東半球と西半球の間の植物、動物、食物、人口(奴隷を含む)、病原菌、鉄器、銃、思考など甚大で広領域にわたる流通を表現するときに「コロンブス交換」という表現が用いられる。

 コロンブス交換は地球のあらゆる社会に影響を与え、その結果多くの文化を絶滅させたり、新種の作物と家畜を循環させ、長い目で見ると、世界の人口を増大させた。

 例えば、トウモロコシとジャガイモは18世紀のユーラシア大陸では非常に重要な作物になり、トウモロコシは日本に届くまで1世紀を必要としなかった。ラッカセイとキャッサバは、東南アジアや西アフリカで栽培されるようになった。

 元来は南アメリカ以外では存在しなかったジャガイモだが、コロンブス以降は世界各地に伝播し、特に北ヨーロッパでは冷涼な気候を生かして大々的に栽培された。1840年代のアイルランドではジャガイモが主食級の扱いを受けている。しかし食生活をジャガイモに依存しすぎたため、のちにジャガイモの疫病に端を発するジャガイモ飢饉で大打撃を受けた。

また、18世紀にスペイン人によって現在のメキシコに持ち込まれたウマは、アメリカ北西部の多くのインディアンによって使役され、移動や運搬に広く使用された。また、トマトソースはイタリア料理の象徴になり、アフリカのコーヒーやアジアのサトウキビはアメリカにおいて主要な作物になっている。

  19世紀に入っても、北米のインディアンは石器を使用していたが、ここにヨーロッパ白人が鉄器を持ち込んだため、槍やトマホークに転用され、対白人入植者や部族間の抗争を激化させた。同じく銃も部族間の勢力争いを激化させ、白人によるインディアンに対する民族浄化にも活用された。酒(ウィスキー)は、インディアンを酔わせて土地の譲渡書類に署名させるためにさかんに使われた。酒造文化のなかった北米のインディアンやエスキモーは、酒で骨抜きにされ、たやすく土地を奪われていった。21世紀の今日も、アルコール依存症は彼らの社会全体を覆う深刻な問題となっている。

 産業革命

 産業革命は、欧米で18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。
 産業革命において特に重要な技術的変革とみなされるものには、英国の主要輸出品であった綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも1770年代のジェームズ・ワットによる蒸気機関の実用化による動力源の刷新が挙げられる。
 これによって工場制機械工業が成立し、また交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明され交通革命が起こった。
 更に重要なのは、これまで家内工業的に生産されてきた工業製品を、製造機械を集約し動力源を設備した工場で、その立地に関係なく大量に生産できるようなったことである。しかし、それには大量の原料の他、機械用の潤滑油や夜間工場稼働のために灯火油が必要であった。

更に、1800年、アレッサンドロ・ボルタによる「ボルタ電池」の発明により、それまでの静電発電機よりも安定的に動作する電源が確保でき、電気の研究が進む。同時にこれらの研究成果等に基づき、電気通信が1839年にチャールズ・ホイートストンとウィリアム・フォザギル・クックにより商業化される。

 850年には英国ドーバーと仏カレーの間に世界で初めて実用的な海底通信ケーブが敷設され、1866年には大西洋横断通信ケーブルが完成し(英米)大陸間の電気通信時代が始まることになる。

 このように18世紀後半の英国に始まった産業革命は生産設備の革新により、その後商品の大量生産時代を招くことになる。

 西ヨーロッパ各国は、大量生産(マスプロダクション)された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心とする東南アジアと中国大陸「清」への市場拡大を急ぐことなり、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじていた。

労働者階層の発生
 産業革命は1760年代から1830年代までに及ぶ非常に長くゆるやかな変化であったが、産業革命以前と以後において社会の姿は激変していた。
 農民の比率は減少し商工業従事者が激増したが、中でも鉱工業に従事する労働者の数が大幅に増えた。

 工業の比率が高まるとともに都市には多くの労働者が集住するようになり、都市化はこのころから徐々に進むようになった。生産システムも、それまでの家内制手工業から工場制手工業(マニュファクチュア)に代わり、都市に大規模な工場を建設して機械により生産を行う、いわゆる工場制機械工業の割合が増加していった。

 ただし、イギリスにおいても工場制機械工業は1830年代を過ぎるまでは工業生産の主流とはいえず、手工業が各地に残存していたことは特筆されるべきである。また、この流れの中で工業に従事する者の中でも階層分化が起き、工場を所持する産業資本家層と、その工場で働く労働者層が成立した。

鯨油の需要の増加
 家内産業から工場に集約された生産設備は、蒸気機関により安定的に兆時間稼働することが可能になった。英国においては石炭の需要により鉱山労働者が増えたが、一方、それまで灯火燃料として活用されてきた安価な鯨油が、工場内機械の潤滑油としても需要が増加し大西洋での鯨漁が盛んになったた。これら鯨油は、クジラの中でも高品質なマッコウクジラから採れた鯨油であった。

 欧米においては当時の捕鯨は主に鯨の脂身と骨を目的としていた。 鯨の脂身から得られる油は照明と潤滑の両方の目的で使用され、鯨の骨や髭はさまざまな有用な製品を作るために使用されていた。そして、大西洋をその主な漁場としていた。特に、良質の鯨油が取れるマッコウクジラがその対象となった。 産業革命よる家内工業から工場での大型機械による大量生産への移行、そして工場稼働時間が深夜に及ぶなどの影響により機械の潤滑油や照明用の鯨油需要が拡大し大西洋からマッコウクジラは姿を消したといわれる。

日本における捕鯨漁

 日本では、縄文時代の遺跡や貝塚から鯨類捕獲や解体に使われたとみられる石銛や石器(長崎県つぐめの鼻遺跡)や、大量の鯨の骨が出土(石川県能登町や富山県氷見市の貝塚)、また鯨類の椎骨を製作台にした「鯨底土器」(九州各地)しており、古代から食料としてあるいは骨を利用するために捕鯨が行われていたと思われる。
 江戸時代になると、「水軍」から派生した専門的な捕鯨集団が現れ、捕獲から解体、鯨油抽出・鯨肉塩漬けなどの商品加工までを行う数千人規模の巨大な組織となったといわれる。
捕獲された鯨からは、鯨油が生産されて農業資材や灯油などとして全国に流通したほか、ヒゲも様々な工芸品の材料として使用された。さらに、鯨肉は食糧としても利用されており、中でも保存性の高い皮脂や鰭の塩漬けは広範囲に流通していた。


 一方アメリカにおいては18世紀にはマッコウクジラの鯨油を目的に商業捕鯨が始まり、大型の帆船捕鯨船を本船としたアメリカ式捕鯨へ移行するとともに、18世紀末ころには鯨を求めて米国東海岸の港より船団を組み南米最南端のホーン岬を経由して太平洋へ操業海域は移った。(右図参照・クリックで拡大)

 このように、当時日本近海では伊豆諸島・小笠原諸島などジャパンクラウドと呼ばれる漁場、カムチャツカ半島東方のカムチャツカクラウドと呼ばれる漁場が捕鯨の好漁場として知られていた。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていた。また、難破船の問題もあり、各国は日本に対し港を開放するように迫っていた。

 ペリーが浦賀へ来航するころのアメリカ合衆国は、米国内のフロンティア解消(国内市場拡大)を優先している時期に当たり、欧州列強のようにインドや東南アジアに拠点を持つ必要性は乏しかった。
しかし、米国東海岸を基地とする捕鯨船は大西洋でのマッコウクジラ資源の減少により太平洋へその漁場を求めており、水や食料、燃料などの補給拠点を求めていた。

 さらに、加えて難破船の問題があった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務の一つであり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。

 1833年当時の人口は、アメリカが約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であったと推定されている。