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1865年(慶応元年)4月16日串木野羽島浦沖に英国の蒸気船が停泊し、そこへ向けて薩摩藩士ら19名を乗せた小型船が出帆した。この蒸気船は、薩摩藩英国留学生派遣を当時の島津久光に上申した五代友厚が英国商人グラバーに用立てさせた蒸気船「オースタライエン号」であった。
生麦事件
話は3年前の生麦事件にさかのぼる。 尊皇攘夷運動の高まりの中1862年(文久2年)9月に江戸から京へ向かう途中、神奈川県の生麦村付近を通行中の薩摩藩主の行列を横切った騎馬の英国人たちを殺傷(1名死亡、2名重傷)した「生麦事件」が事の発端である。

事件後、英国は犯人引渡し要求を行い賠償金請求について幕府および薩摩藩と交渉を重ねた。
しかし薩摩藩は生麦事件での首謀者については引渡しを拒否したため、薩摩藩との交渉がこじれ翌年には英国艦隊が鹿児島湾へ向かい、軍艦からの薩摩藩への無差別な威嚇攻撃が「薩英戦争」の事態を引き起こす。 この時に後の英国留学生となる松木弘安、五代友厚が捕虜となる。 また薩英戦争では、英国艦隊が鹿児島湾の精密な測量を行なっていたことがその航海図から判明している。(下図、クリックで拡大)
開戦までの経緯 1863 年(文久3年) 6月、横浜に停泊していた英国海軍の軍艦7隻が、鹿児島湾に侵入。犯人の処刑と被害者への賠償金の支払いを求めた。これに対し、「事件の真相をよく調べたうえで、賠償金の支払いの可否を決定する。犯人については、すでに逃亡してしまったため、もし捕獲できればこちらで処罰する」と、薩摩藩はのらりくらりとかわした。
これでは何も回答していないに等しく、英国は納得しなかった。怒っ英国艦隊が薩摩藩の船3隻を収奪すると、薩摩藩はただちに砲撃を開始する。かくして「薩英戦争」と呼ばれる戦端の火蓋が切られた。
それにしても、なぜ薩摩藩はこれだけ強硬な姿勢をとったのか。「幕府のように、相手のいいなりになるわけにはいかない」というプライドもあったが、そもそも英国と薩摩の間に誤解があったことが判明している。 当初薩摩藩は幕府を通じて「英国は3つの要求を行っている」と伝えられていた。
- 「償金を差し出すべし」
- 「三浪(久光)の首級を差し出すべし」
- 「薩州へ軍艦を指向けるべし」
目を引くのは2つ目の要求である。藩主久光の首を差し出すことなどできるわけがない。退路を断たれた薩摩藩は、英国を迎え撃つべく、実弾を用いた砲撃訓練を開始する。
だが実は、英国からの要求を日本語に訳すときに、慌てて訳したせいか、幕府の首脳が意味を取り違えてしまっていた。英国が処刑を望んだのは生麦事件を起こした犯人であり、藩主の首など求めてはいなかったのである。
その真相に薩摩藩が気づいたのは、鹿児島へ到着した英国の艦隊から要求を綴った書状の正しい日本語訳を受け取ったときであった。すでに戦闘モードに入っている薩摩藩としては、もはや引き返すことは難しかったのである。
そんな誤訳があったとは露も知らない英国は、開戦の直前まで、戦争にまでなるとは想定していなかった。直接、掛け合えば、あっさり要求を呑むだろうと踏んでいたのだ。
艦隊で鹿児島に向かう英国公使館員たちの様子からも、戦争に向かう勇ましさはまったくない。横浜からの船旅を楽しみながら、船上では、おいしいワインを開けて、食事会で舌鼓を打った。
鹿児島が見えてくると、その自然の美しさに感動さえしている。船員のなかには、家族にこんな手紙を書いた者もいたくらいだ。
「もし、友達がすべて一堂に会して、この土地の壮観さと、新奇さをかき立ててくれる楽しみを知ったならば、また、それを心ゆくまで味わうことができたら、これ以上ののぞみはありません」
完全に観光気分である。にもかかわらず、薩摩藩は意外にも強硬な姿勢を見せる。賠償金の支払いを引き延ばし、犯人の引き渡しさえも消極的だ。 どうにか相手にきちんと考えさせようと、英国艦隊が船を逋脱したところ、薩摩藩がいきなり砲撃に踏み切った。驚いたのは、イギリス側のほうであったという。 なお当時久光は江戸におり、現地薩摩では海に近い鹿児島城がイギリス軍の大砲の射程圏内となるため、海から離れた千眼寺(現鹿児島市常盤町)に本陣が置かれ大久保利通らが指揮をとっていたといわれる。千眼寺は明治時代の廃仏毀釈により廃寺となる。(下写真本陣跡、クリックで拡大)

薩英戦争後
「薩英戦争」は薩摩藩の思いがけない反撃で英国艦隊は敗退するが、軍艦の威力を知った薩摩藩は、その後生麦事件の賠償費用で同意するとともに軍艦購入の斡旋を英国へ依頼し、事態は沈静化へ向かう。
このような経緯を経て薩摩藩と英国との関係は良好なものに変質していった。
さらに、薩英戦争時イギリス側の捕虜となり、罪人扱いとなった五代友厚は幕吏や攘夷派から逃れるために長崎に潜伏していた。ここでトーマス・グラバーと懇意の間柄になり、世界の情勢を知る事になる。 諸外国の行動に危機感を感じた五代は、1864年6月頃、薩摩藩に対して今後の国づくりに対する上申書を提出する。「これからは世界の大勢に遅れないよう海外で西洋の技術を習得し、国の発展に役立てねばならない。」 この上申書には、新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)という具体的な内容までも含まれていた。

薩摩藩英国留学生 出帆
これまでも、富国強兵に努めていた薩摩藩の政策に五代の上申書が引き金となり、イギリス留学の方針が決定されることとなる。 この上申書の翌年1865年(慶応元年)2月13日、視察員4人と、薩摩藩開成所を中心に留学生15人が選ばれ留学渡航の藩命が下された。 鎖国中の最中の洋行は禁止のため、表向きの辞令は「甑島・大島周辺の調査」で、一人ひとりに藩主島津久光から変名を与えられた。 同年4月14日、英国渡航に係る手続きのため長崎に滞在していた五代、松木、堀の3名が羽島に到着し、留学生一行と合流。翌々日には乗船予定の蒸気船「オースタライエン号」が羽島沖に現れる。その後、荷物を積み込み、羽島沖を出帆することになった。
英国到着後ロンドンでの記念写真
後列左から 高見弥一、村橋久成、東郷愛之進、 名越時成 前列左から 畠山義成、森有礼、松村淳蔵、中村博愛 |
後列左から
朝倉盛明、町田申四郎、鮫島尚信、 寺島宗則、吉田清成、 前列左から 町田清蔵、町田久成、長沢鼎 |
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鹿児島中央駅には彼らの勇気と行動力を讃え薩摩藩英国留学生の銅像が設置されている 「若き薩摩の群像(1982年制作)」

薩摩藩英国留学生に興味をお持ちの方は、鹿児島県いちき串木野市羽島4930番地「薩摩藩英国留学生記念館」まで
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