|
南薩地域から米国への渡航者の先駆け、的場八束
南薩地域から米国への渡航者の先駆けは、西南戦争後の明治10年(1877年)に渡米した知覧上郡(かみごおり)集落の的場八束(まとばやつか)という説がある(渡航年については異論あり)。 彼はサンフランシスコでカツオ漁船を保有して財を成したというがその後の消息はつかめていない。
「南加鹿児島県人誌」によると当時のサンフランシスコ周辺には約1,000人の日本人がいたという。1890年代に入るとサンフランシスコを中心とした鹿児島県出身者による北加鹿児島県人会が組織され、1895年にはロサンゼルスに北加鹿児島県人会南加支部が発足するなど、鹿児島県出身者は増加している。
揖宿郡頴娃、摺木集落からメキシコへ
揖宿郡頴娃においては、明治27年(1894年)に渡航した摺木(するき)集落の摺木寅吉と前村松之助が最初の渡航者といわれる。彼らは石工として働いていた知覧門之浦の医院の佐多征二医師からメキシコ移住を薦められ、メキシコにわたりそこから砂漠を越えてアメリカへ密入国している。
その目的は、生産性が低い畑、台風常襲地帯である頴娃での生活を立て直すための「出稼ぎ」であったという。
渡航者からの送金
大正2年(1913年)の在米鹿児島県人は1401名(男1320名、女81名)で、彼らが県内へ送金したり持ち帰った金額は50万円くらいであったという。当時の鹿児島県の教育予算が35万円であったことを考えると非常に多額であった。
大正3年(1914年)の桜島大噴火に対し県人会から300ドルが送られ、それに対し県人会へ銀杯、木杯が送られている。さらに大正5年(1916年)には南カリフォルニアから銀行経由で鹿児島に送られた金額は250万円まで増加した。大正7年(1918年)南カリフォルニアの日本人は15,320人で鹿児島県人は569人であった。
違法渡航者と共助 一方、米国においては増加する東洋人の排斥運動が始まる。1920年のノイマン法に始まる米政府の移民政策の変更により、米国への入国は厳しく管理されることになる。しかしこのような移民に対して厳しい姿勢を貫く米政府の思惑とは別に、南薩地域からの渡米は続く。
その方法の一つは農業技術研修生あるいは自動車技術研修生としての合法的入国である。
研修生として 例えば頴娃耳原集落の大原清秀氏は昭和2年(1927年)にロサンゼルスの自動車学校で運転と整備を研修している。
病気のため昭和14年(1939年)に帰国したが、2年間の研修を終えると移民官の目を逃れてロサンゼルスの親族を頼り、帰京するまでに5400ドルの預金をした。
また、知覧中渡瀬(なかわたせ)集落の中渡瀬国香氏(米国在住)は昭和3年(1928年)に農業研修生として渡米し、研修後の昭和5年(1930年)からロサンゼルス居住の兄二人と農園を始めた。 この兄二人は先にメキシコに渡りその後米国へ入国したが、そのうち一人は密入国であったため逮捕されメキシコに戻されたという。
中渡瀬氏の兄と同様に非合法的な入国の試みも多かった。
密入国
メキシコからのアメリカ入国の厳しさについて「南加鹿児島県人史」に松下勝美元県人会会長談がある。
知覧出身の彼は、1916年神戸よりメキシコ領マサトランに着き、船を乗り換えてグアイマス経由でコロラド川を遡り、砂漠を徒歩で3日間歩きアメリカへ入国したという。このほかにも広いアメリカ大陸であるから様々なルートで目的地を目指したが、官憲の目を逃れるための努力は非常なものがあった。
また頴娃耳原集落の福元重志によると、1919年ブラジルの旅券を得てメキシコへ渡航し、渡航費用を一年間働いて返済後、300ドルを持ってバスや徒歩で入国した。 10年後に帰国し結婚して妻と共に再びブラジル旅券でメキシコから米国へ入国を試みた。 当時は排日移民法により密入国が厳しく監視されていたため、キャベツを積んだトラックの荷台に隠れて入国したという。
密入国者達は南薩同郷人会や頴知同志会などの同郷人組織に助けられて移民官の目を逃がれたり、逮捕された後の交渉や費用負担などで援助や保護も受けることができた。ただ彼らの渡航費は自分や家族から調達したというよりは、渡航後稼いだ金を返済に充てるということで親戚・友人から借りたものであった。 そのため目的地到着までに移民官に逮捕され強制送還されると帰路の旅費まで自分持ちとなり、帰国後も長期にわたり返済に苦しめられた。
故郷への還元 米国渡航者が、送金したり持ち帰った金額については既述の例があるが、このほかにも、次のような例が語り継がれている。
- ●知覧町の松山郵便局を昭和5年(1930年)に創設したのはアメリカから帰国したばかり(知覧では「アメリカもどい」という)の頴娃耳原の大原敬一であった。
これは滞米中に郵便制度の便利さを実感し、故郷で再現したものである。
- ●知覧の門之浦集落の公民館は昭和3年の建設時に在米者62名から2920円の寄付をもとに建設されたとの碑がある
- ●頴娃・耳原集落では昭和8年のアメリカ渡航者より1町歩の集落林を寄付され「アメリカ山」と呼ばれている。
- ●昭和9,10年の南薩の干ばつは飲み水に事欠くほどであったといわれるが、在米頴知同志会が中心となって集めた義捐金が、知覧門之浦へ423円、頴娃へ938円36銭、耳原へ135円33銭、摺木へ173円50銭送金された。
出典・関係資料:
鹿児島県の地名表示について(昭和33年当時の資料)
市町村の統合・合併などにより地名表示が変更されています。昭和33年の県勢一覧に当時の市町村名を下記地図でご覧いただけます。
南薩移民秘話
明治・大正期に知覧や頴娃を中心とした南薩地方から米国やブラジルへ「出稼ぎ」渡航された方々についての「古老からの聞き取り」調査(1980年代)をベースに、米国生まれの帰米2世「上村南水翁」出版の詩歌集「二つの祖国に生きて(2000年)」からその実体に迫ってみました。
|