|
戦前ドイツにおいてインドネシアを拠点に東アジアとの貿易会社を経営し、政治家・実業家に、経済界要人の一人であったエミール・ヘルフェリッヒ(Emil Helfferich)氏(1878-1924)がいた。 彼は当時のドイツ帝国副首相(1916-1917)Karl Helfferichの弟でもあり、東アジアでの事業活動を通じて日本文化に深い造形を持ち、収集家でもあった。 ノイシュタット(Neustadt)にある彼のお墓の写真(下記)をいただいているが、他のドイツのお墓とは全く異なり、日本の仏塔を髣髴させる。

南西ドイツ在住の日独交流史の研究家 堀氏は彼の日本贔屓の理由についてその生涯と遺品から研究していくうちに有村貫一(ありむらかんいち)氏の存在を知ったという。
日独交流史研究家 堀氏から
「エミールを日本文化に魅入らせた日本人の一人が鹿児島県出身の有村貫一氏ということがわかりました。 エミールが蘭印に駐在していた際、同じく蘭印に南國産業株式會社から派遣されていた有村貫一氏と出会い、有村氏を評して、以下のように述べています。
「教養があり、意志が強く、勤勉で頼もしい存在だった。日本人のなかで一番親しくなり、日本人の礼儀や性質は彼から学ぶことになった。」
「哲学的にも素晴らしい感性の持ち主で、特に彼が日本文化や日本の礼儀について話す時は大変興味を惹かれた。私たちはこれらについて何度も会話を重ねていき、それによって、私は徐々に、後に私の最も美しい体験の一つとなる、日出づる国に入り込んでいったのだった。」
つまり、エミールの日本観は、このような有村氏による影響がかなり大きいと思われます。
この、有村という人物について調べていくうちに、鹿児島県出身者であることがわかりました。 そして有村氏の鹿児島での生い立ちについて興味を持っています。」
※堀氏の論文は法政大学学術機関リポジトリ(HOSEI UNIVERSITY REPOSITORY)紀要に収容されています。 著 者:堀 咲子 出版社:法政大学国際日本学研究所 雑誌名:国際日本学 発行年:2020-03-25 リンク:法政大学学術機関リポジトリ「エミール・ヘルフェリッヒと日本 : その生涯と日本コレクション」(83ページ参照)
しかし、有村氏の鹿児島での生い立ちについての詳細はまだ不明で、皆様からの情報提供を引き続き募集しています。
| 現在までわかっている有村貫一(ありむら かんいち)氏について |
- ・鹿児島県西櫻島出身。
- ・明治42(1909)年 鹿児島県立鹿児島第一中学校(旧制)卒業。
- ・大正5(1916)年、東京帝国大学農学部卒業。
- ・その後、20年に亘ってジャワに駐在。(南國産業株式會社駐在員)
- ・エミール著書によると一男一女。(右家族写真参照)
- ・昭和11(1936)年に帰国、その後は本社勤務。
1951年、1954年に『月刊インドネシア』に寄稿。肩書は、「南國産業株式會社取締役/社長」
- ※東京帝国大学卒業者名簿(大正5年)に有村貫一氏の名前があり、鹿児島県出身であることが記載されている。
また、鹿児島県立鹿児島第一中学校(旧制)同窓会名簿(昭和16(1931)年度)によると東京在住となっている。
|
 |
|