太平洋戦争前夜
翁の父も31歳の時、妻を娶りに鹿児島頴娃へ帰国している。翌年挙式し16歳であった新婦を伴ってサンフランシスコ経由で再渡米した。そしてその翌年1925年長男上村南水が誕生した。
このように移民に対して厳しい姿勢を貫く米政府の思惑とは別に、南薩地域からの渡米は続く。
その方法の一つは農業技術研修生あるいは自動車技術研修生としての合法的入国である。例えば頴娃耳原集落の大原清秀氏は1927年(昭和2年)にロサンゼルスの自動車学校で運転と整備を研修している。病気のため1939年(昭和14年)に帰国したが、2年間の研修を終えると移民官の目を逃れてロサンゼルスの親族を頼り、帰京するまでに5400ドルの預金をした。
また、知覧中渡瀬(なかわたせ)集落の中渡瀬国香氏(米国在住)は1928年(昭和3年)に農業研修生として渡米し、研修後の1930年からロサンゼルス居住の兄二人と農園を始めた。この兄二人は先にメキシコに渡りその後米国へ入国したが、そのうち一人は密入国であったため逮捕されメキシコに戻されたという。
中渡瀬氏の兄と同様に非合法的な入国の試みも多かった。
移民周旋屋・移民会社に依頼したり、中渡瀬中渡瀬氏の兄と同様のメキシコ経由での密入国である。
移民周旋屋については「森岡商会」がある。ハワイやカリフォルニアに多くの日本人を送り込み、それが不可能になるとペルーへ移民を送った。
メキシコからのアメリカ入国の厳しさについて「南加鹿児島県人史」に松下勝美元県人会会長談がある。
知覧出身の彼は、1916年神戸よりメキシコ領マサトランに着き、船を乗り換えてグアイマス経由でコロラド川を遡り、砂漠を徒歩で3日間歩きアメリカへ入国したという。このほかにも広いアメリカ大陸であるから様々なルートで目的地を目指したが、官憲の目を逃れるための努力は非常なものがあった。
また頴娃耳原集落の福元重志によると、1919年ブラジルの旅券を得てメキシコへ渡航し、渡航費用を一年間働いて返済後、300ドルを持ってバスや徒歩で入国した。 10年後に帰国し結婚して妻と共に再びブラジル旅券でメキシコから米国へ入国を試みた。 当時は排日移民法により密入国が厳しく監視されていたため、キャベツを積んだトラックの荷台に隠れて入国したという。
密入国者達は南薩同郷人会や頴知同志会などの同郷人組織に助けられて移民官の目を逃がれたり、逮捕された後の交渉や費用負担などで援助や保護も受けることができた。
ただ彼らの渡航費は自分や家族から調達したというよりは、渡航後稼いだ金を返済に充てるということで親戚・友人から借りたものであった。そのため目的地到着までに移民官に逮捕され強制送還されると帰路の旅費まで自分持ちとなり、帰国後も長期にわたり返済に苦しめられた。
またこのような米国の移民制限は、事実上米国移民を不可能として出稼ぎ先の変更を余儀なくされた。
1924年(大正13年)には鹿児島海外協会が組織され、ブラジル、満州、朝鮮への移植民が奨励された。昭和2年から10年までにブラジルに渡航したものは、2,153名、明治以降では4,825名になった。県全体でみると、昭和10年(1935年)の海外在留者総数は14,880名で満州、ブラジル、アメリカの順であった。
昭和10年(1935年)の海外移民在留の鹿児島県人数
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出身地域への貢献 一方そのころ米国渡航者による地域社会への貢献の模様も語り伝えられている。
知覧町の松山郵便局を昭和5年に創設したのはアメリカから帰国したばかり(知覧では「アメリカもどい」という)の頴娃耳原の大原敬一であった。 これは滞米中に郵便制度の便利さを実感し、故郷で再現したものである。
また、同じく知覧の門之浦集落の公民館は昭和3年の建設時に在米者62名から2920円の寄付をもとに建設されたとの碑がある。
さらに頴娃・耳原集落では昭和8年のアメリカ渡航者より1町歩の集落林を寄付され「アメリカ山」と呼ばれている。
また、昭和9,10年の南薩の干ばつは飲み水に事欠くほどであったといわれるが、在米頴知同志会が中心となって集めた義捐金が、知覧門之浦へ423円、頴娃へ938円36銭、耳原へ135円33銭、摺木へ173円50銭送金された。
このように、当時の海外渡航者はいつかふるさとに帰る日を夢見て異郷の地で過ごしていたのである。
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